梁、陳、隋の武将。
侯景の反乱に際して少年の身ながら陳霸先率いる梁軍と戦い、武勇が認められて陳霸先麾下の侯安都に従った。
鍾山の戦いで侯安都が北斉軍に包囲されると、単騎で突撃して救出する。
呉明徹の北伐に従い、西域から来た北斉の援軍を打ち破り、関羽・張飛に比せられた。
その後、始興王の反乱を鎮めて車騎大将軍に任じられる。
隋の侵攻では、後主に無謀な出撃を命じられ賀若弼の捕虜となる。
首に刃を当てられても屈さなかったため、縄を解かれ隋の開府儀同三司となった。
煬帝の即位に際して楊諒の反乱に従い、殺害された。
唐の将。薛仁貴。薛軌の子。
張士貴の兵の徴募に応じて、高句麗遠征に参加。
劉君卬が高句麗軍に攻囲されている危機を救援して名を挙げ、以後、突厥・高句麗・吐蕃・契丹といった唐王朝の遠征軍に連続して参加。
安市城の攻撃では、白衣を着て目印とし、戟を持ち、二張りの弓を腰にかけて軍の先頭に立ち突撃し、高句麗軍を破った。
遠征軍が長安に帰還すると、宮城の北門を守備。
突厥の骨篤禄が唐の北辺に侵入すると、阿史徳元珍の軍を雲州で撃退した。
その勇武は多くの民間伝承に伝えられる。
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。呉国公。鄂国公。
鉄鞭の名手。隋末期には劉武周に従い、各地に頻発する反乱の鎮圧に当たる。
その後、唐に敗れて帰順し、唐の創設者である李淵の子・李世民に仕えて大陸統一に貢献。
その後も、異民族の討伐などで活躍した。
常に李世民に忠実であり、李世民が兄や弟と争った「玄武門の変」では李世民の弟・李元吉を討ち取って、李世民を太子の座に上らせた。
晩年は官職を退き、神仙の修行に明け暮れている。
その強さは神勇と称され、戦場では一度も傷を負ったことがなかったという。
南宋の武将。武穆。岳王。
農家に生まれながらも文武に励み、辺境防衛の義勇軍に参加。
数々の軍功を上げて頭角を現し、次第にその地位を高めた。
その後、南宋に侵攻する金と対峙し、中原回復を目指して度々戦果を上げている。
名声を高める一方で、他の官僚や軍閥との協調を欠いて次第に孤立。
金との和平を主張する秦檜が宰相に就任すると、無実の罪を着せられて処断された。
その背中には「尽忠報国」と刺青されていたという。
のちに名誉を回復し、現在は救国の英雄として関羽と共に武廟に合祀されている。
五胡十六国時代の群雄の一人。後趙の将。魏(冉魏)の建国者。父は漢民族の冉良。
後趙の石勒らの虜囚となるが、その勇猛さを買われその甥の石虎の養子となり、石瞻に改名。
石虎旗下の将として後趙を支えるが!石虎没後の後継者争いでは司空の李農らと結び、石遵や石鑑らを相次いで擁立し政権を掌握。
後、自身の排斥への先制と漢人への苛政に対する報復として石一族を処刑し、異民族系の民衆20万人を虐殺。
姓を冉氏に戻し、自ら皇帝に即位した。
だが、漢族のみの国家のため勢力基盤は脆弱で、前燕の慕容恪に敗北し処刑された。
南北朝時代、北魏の将軍。
孝文帝の頃に南征に志願。飛ぶように走る様を認められ将校となる。
その豪傑ぶりは関羽、張飛と比され、「武勇は三軍に冠たり」と称された。妻の潘宝珠も武芸に通じ、共に戦場に出て戦ったという。
やがて中山王・元英の指揮下に入ると、南朝の梁軍と戦って目覚ましい戦果を上げ、南朝の人々の間では、その名を聞けば泣く子も黙るといわれた。
しかし、鍾離の戦いで大敗を喫し、責任を取って中山王は王位を返上。
楊大眼も一兵卒に降格されたが、後に再び起用されて荊州刺史となった。
南宋の武将。
最初は湖北の賊だった曹成の将となる。
岳飛の討伐を受けると、岳家軍の将の韓順夫と岳飛の弟の岳翻を討ち取る。
投降すると岳飛に忠義報国を尽くすよう諭され、岳家軍の武将となる。
岳飛の北伐に従い、長水では斉の孫都統を撃ち、蔡州で敵の糧秣を焼き軍功を重ねる。
郾城の戦いでは単騎で金軍に突撃し、満身創痍となりながらも数百を討った。
三百騎で行軍中に臨潁の小商橋で十二万の金軍に包囲され、勇戦して二千人余りを討ち倒したが戦死した。
遺体からは二升もの鏃が出てきたという。
明初の将。懷遠の人。容貌魁偉で武勇に冠絶していた。
劉聚傘下の盗賊だったが、朱元璋が和陽に到ると麾下に入った。
渚磯の戦いでモンゴル軍を破ってからは、采石を巡る攻防で活躍。
徐達元帥に従い各地を転戦し、陳友諒の追撃の際には留守居を担当。
法を厳格に執行し軍民ともに粛然としていたという。
邵榮の造反時は、処断すべきであると主張し、羅友賢・張士誠の打倒に功を挙げる。
太祖が呉王に即位すると鄂国公・副将軍を拝命し、さらに重用された。
徐達と共に北伐を成功させたが、帰還の途上、柳河川で病没した。
五代十国末期の北漢、および北宋初期の武将。
北漢の節度使として代州に駐屯するが、北漢が宋に降伏したため楊業も宋に下る。
遼が十万の軍で雁門関を攻めると、楊業は雁門関を迂回して遼軍を奇襲し打ち破っている。
このため「楊無敵」と恐れられた。
宋の太宗趙匡義による北伐では潘美の副将として西路より遼へ侵攻する。
しかし潘美らが北漢の降将である楊業を疎み、楊業が戦わざるをえない状況に置き、友軍に見殺しにされた楊業の軍は壊滅。
捕虜となった楊業は絶食して命を絶った。
中国史最強の武将。西楚の覇王。楚の名将・項燕の孫。
若い頃より武芸、兵法を修め、陳勝・呉広の乱が起こると叔父の項梁に従い挙兵した。
秦討伐戦では各地の秦軍を破って名を馳せ、項梁死後は楚軍の総帥となる。
関中争奪では劉邦に遅れたが、実力で諸侯を黙らせ、秦を滅ぼして覇王となった。
だが、その後は各地の反乱に悩まされる。
後に劉邦との抗争が激化すると、戦えば必ず勝利したものの、次第に戦力を消耗。
四面楚歌の中、垓下の戦いで漢軍に敗れる。
鬼神の如き強さを見せて漢軍の包囲を抜くが、天命に挑み力を示した後、自害。
項羽って人外よな
呂布とかいう雑魚が100人くらいいても蹴散らしそう
戦えば必ず勝利ってホンマ?
韓信にボコボコにされてなかった?
1位が項羽や
当然の話だ
鄧羌や慕容垂は?
慕容垂は猛将より名将感ある
自身も先陣切るぐらいはやらんとな
Copyright © 2020 あらまめ2ch All Rights Reserved.