同じ順位に複数人名前が挙がる。等級だと思ってくれ
1位 曹操
この時代最強の将。1万の呂布を相手に一千で打ち破る、官渡では5倍の兵力差を覆し10万の袁紹を破り華北を制圧する等、用兵・騎兵運用で逆境を覆す戦績が多い。特に官渡ほどの圧倒的劣勢を逆転させた勝利は中華史でも有数。対蜀の山岳戦闘や、対呉の河川流域の戦闘では実績がないが、野戦、平地での戦闘では徐栄相手に1敗のみで残りは生涯無敗。個人で獲得した領土もこの時代で一番。
用兵で右に出るものはいない。三国時代から一人名将を選ぶなら曹操以外にはあり得ない
演義の反動で逆評価を受けているが、呂布が編成した騎兵は三国時代で最高の戦力を誇る軍であり、呂布はその頂点。高順、張遼を率いるということはそういうことである。最強の騎兵指揮官であり、曹操を唯一戦争で追い詰めたことがあるのは呂布のみである。
周知の通り赤壁で曹操を撃退した男。火刑を用いて曹操軍の船団を焼き払い撤退させる。赤壁の戦い自体は小規模で、戦死した将帥もいない。それよりも凄いのは魏最大の名将曹仁と戦い、1年の激戦を制して勝利したことだろう。関羽ですら倒しきれなかった守将である。強大な魏に正攻法で挑み、領土を獲得した唯一の呉将である。残念ながら流れ矢に当たり、恐らくはそれが原因で若くして病没した。
曹仁はともかく張遼はないやろ
寡兵で大軍をいなした枠でしかない
知らぬ人はいないだろう。万の軍に匹敵する猛将。単騎で軍に突入し一騎で顔良を討ち取る等、数多の武勇伝を持つ。関羽の将器を示すのはやはり樊城の戦い。宿将曹仁を追い詰め、援軍の于禁3万を下し、龐徳を切る。その強さに多くの賊や侠客が呼応し、魏の各地で反乱を起き曹操は遷都まで考えた。魏は更に徐晃を派遣し、魏の将3人がかりでようやく関羽を追い返すことができた。
鄧艾 世界最古の山岳特殊部隊。天険に守られた蜀を優れた測量と的確な見通しで進み、曹操・曹真ですら成し得なかった蜀制圧を果たす。姜維は最後まで鄧艾に勝てなかった。計算も得意で農業にも実績があり、開拓を行い運河も建築した。三国志最大の奇才の持ち主である。鄧艾の侵攻戦を短く纏めて語るのは不可能なので諦める。
三國無双で1番イケメンなんですけど
彼は最強ランキングに出てこないところがいいんじゃないかな
やべえ曹仁のまとめなくしちまったよ…
連環の計ぐらいしか記憶に無いぞ
死んで益州攻める大義名分を与えてくれたことが最大の功績や
また10万の兵で侵攻してきた曹休を完膚なきまでに叩いた。
強いで
一流の指揮官やで
だけど超一流には勝てないんや
多くの人が諸葛亮の能力について勘違いしているが彼は内政に優れているということ。そしてもう一つは彼の行った実績は軍師・軍略家ではなくほとんど将軍の責務であるということ。蜀の総指揮官として諸軍を統率し、前線に赴いて魏に侵攻した。その戦ぶりも正攻法で魏の将兵とぶつかり、軍の統率力によって強兵で敵を打ち破るという将軍の能力そのものである。陣形に定評があり、中華史で一番の名将と謳われる唐の李靖は諸葛亮の布陣と、曹操の騎兵の運用を参考にしたと言う。
諸葛亮は奇策、軍略を一度も使うことなく5度の北伐を終え、戦果としては僅かな領地を獲得するのみであった。これを無策とみるかやむ無しとみるかで後世の評価が分かれている。
丁奉の方がすごくね
贔屓と言われそうだが、一州から始まり、華北全体を統治した以上の功績が正直他に見当たらない。
政治最大の功績一つ目は屯田制(民屯)を歴史上始めて導入したこと。民に土地を与えて耕させ、軍隊に守らせて区画的に農業を進めたことで曹操の州は莫大な余剰食料を得、多くの民衆を集めることができた。更に強制婚姻を進め、兵制も強化され、軍隊は中央集権化され統率が行き届いた。曹操の統治で州の国力は飛躍的に増大した。
もう一つは人材制度である。身分家柄に囚われず才を用いる求賢令を発令し、多くの人材を登用した。中正という役職を作り後の九品官人法の元となった。人材登用と中央集権を兼ねた制度である。
屯田と人材登用で曹操の死後も栄えた強大な魏は、蜀も呉も倒すことが不可能だった。特に民屯は均田制の前身とも言われる。魏ほど法令が行き届き、諸将が勝手な真似や越権を決してしない中央集権国家はこの時代にない。
曹操に俺の張良だと言わせた最初期から仕えた中華最大勢力の参謀。曹操に代わって都の政治を執り仕切った。曹操は軍事、内政、外交、人材登用と全ての国事行為を荀?に相談した。官渡では出陣する曹操に代わって都をよく治め、食糧を送り支援した。また関中に鍾ヨウを派遣し涼州を外交で手懐けた。荀?が登用した者は戦死や病死した者を除けば全てが大臣に登り、大国・魏を支える基盤となった。魏は荀?なくしてその繁栄はありえない。
蜀の宰相。拠り所のない劉備を蜀を獲るまで導いた。優秀な内政官で、五度の出兵を経ても国が傾くことはなかった。その手腕は同じく小国を支え大量の食料を戦地へ輸送した蕭何に比される。例の小説で最も能力を誤認されている人。実際の諸葛亮の能力は兵站のスペシャリストであること。また蜀の法律は行き届いていて、信賞必罰が明確であった。
にわかはどいつもこいつも呂布の名前出したがるし
陳羣 魏の重臣。曹丕の代に魏の九品官人法を制定した。中央から派遣された中正官が人材の登用権を持ち、人材を能力で登用しようとする制度である。更には豪族の抑制と権力の中央集権化を兼ねた画期的な制度であった。陳羣を諸葛亮と同格に扱うべきか迷ったが、九品中正は後世に影響を及ぼし世界史に載るレベルの法律なので実績は当代一といってもいい。なおこの制度は司馬懿が州大中正を作り権力を強めて悪用してしまうため、賄賂が横行して能力主義が失われ、国力の低下に繋がった。中華史上最弱の王朝・晋の元凶となる制度でもある。
何故か肉刑が大好きで、献策する度に却下されている。また晩年に産んだ末っ子があの鍾会である。
劉復 当時では名声高い人物だが現在では知られていない人物の一人。州知事としてこの時代屈指の良政を施した。彼は揚州刺史に任じられると単身何もない合肥に赴任し政庁を設置した。揚州は数年で栄え、恩恵と教化が大いに行なわれ、多くの民衆が劉馥の政治を慕い集まり、流民が江山を越えてくるほどで、帰順者は万単位にのぼった。学校を立て、屯田・灌漑事業を推進し、官吏も民衆も蓄えを得た。周りの賊も手懐け、雷緒も劉復に帰順した。日頃から堤防を築き物資を蓄え、城の防御を万全にした。孫権は何度も大軍を率いて合肥を攻めたが一度も勝つことはなかった。無から始め、ここまで領地を栄えさせた政治家は彼以外には見つからない。
郭嘉 当代一の軍略家、曹操の頭脳。曹操軍の軍略はほぼ全て郭嘉か荀攸の献策である。対呂布では水攻めを献策し徐州を平定する。対袁紹ではわざと軍の矛先を変えて広大な領土の袁紹を政権争いで分断させてから冀州を平定した。更に騎馬民族・鳥丸の討伐に従軍し、神速を以って敵の不意を突き勝利した。曹操が中原の覇者となった後、病にかかり亡くなった。
彼の最大の能力は圧倒的な知力で先を読むことにある。官渡の際には曹操全軍が孫策の攻撃を恐れたが、郭嘉のみが孫策は暗殺されると予言し、対袁紹に踏み切らせた。鳥丸討伐の際も殆どの臣下が劉備が隙をつくことを警戒して反対したが、郭嘉は劉表にはその決断が下せないと言い切り、その通りとなった。生涯で間違えた進言は一つもない。主君を中華最大勢力まで導いた軍師である。
目立つ郭嘉の影に隠れがちだが、曹操の全ての文官の筆頭が荀?である。曹操軍全ての戦いにおいて荀?が軍事の方針を決め、曹操が実行に移し、郭嘉・荀攸ら参謀がそれを補佐する形をとっている。
特に官渡の戦いでは袁紹軍を細かく分析し、情勢を完璧に把握した。荀?は顔良、文醜は策によって討ち取れる、袁紹の軍師達は対立する、田豊は強情なため用いられない、許攸は貪欲であるため仲間に告発されるといい、必ず変事が訪れると語った。戦は荀?の進言通りに展開し、最後は投降した許攸の機密によって曹操は勝利した。戦局は終始劣勢で曹操ですら勝てないと思い、荀?に撤退を相談したが、彼は決して許さず必ず策を用いる機会が訪れ勝てると励ました。
以上の功績から曹操は従軍した将軍、参謀を抑えて荀?を官渡の戦いの第一功とした。
先に述べた通り軍を統率して曹操を撃退し、曹仁を敗走させ江陵を制した。軍の益州に派遣して支配し、馬超ら涼州軍閥と同盟を結んで魏を同時侵攻する北方制覇という壮大な軍略を唱えた。また劉備から張飛・関羽を分断させ力を削ぐよう献策した。しかし早死にし、周瑜の策を実行できる者は周瑜の死後にはいなかった。彼が生きていれば曹操は本当に窮地に陥っていたかもしれない。周瑜を除いて魏を征することができる軍略家はいない。
魏の筆頭軍師、参謀集団の長である。曹操軍の戦における具体的な戦術、戦略を担当した。彼の最大の功績もやはり官渡の戦い。楽進于禁を囮に使い、注意を引かれた袁紹軍の裏をかき関羽・張遼に顔良を急襲させ討ち取らせた。次に進軍してきた文醜には輜重隊を囮に使い文醜の軍が略奪を始めた頃合いを見て攻撃し戦死させた。
その後も徐晃らに輸送隊を攻撃させる等戦線を指揮したが曹操軍は大軍を相手に終始劣勢だった。しかし許攸が機密を持って投降してきた際、多くの将が謀略と疑ったが賈詡と共に真偽をつけて曹操に行動するよう進言した。曹操は荀攸荀彧に次いで第二功とし、褒賞した。
当代一の謀略家。敵を欺くことにかけて右に出るものはいない。曹操を殺しかけた軍師。彼も情勢に優れ、生涯を通して失策をしたことがない。曹操が呉を討伐しようとした際、孫呉の地盤は強く、また水域での戦いとなるため、ここは政治を優先して勢力を増強して圧をかけるべきであると進言した。賈詡の読み通り曹操は敗北した。そして彼の本領は潼関の戦いで発揮される。韓遂に使者をやり和睦を結び、優遇を示唆することで馬超の疑念を生ませ、信頼関係にヒビを入れる。連携が崩れたところを曹操は見逃さず攻撃し、涼州軍閥を大敗させ関中を支配する。曹操は中原の次に多い領土を獲得した。
将軍の地位についてるからバリバリの最前線で武器持って戦うって言う
実質劉備関羽張飛全員討ち取ったのポイント高い
1位 曹操
2位 呂布
3位 周瑜
4位 関羽
5位 曹仁 徐晃 張遼 呂蒙 陸遜 朱然 鄧艾
5位圏外 張郃 楽進 曹真 張飛 黄忠 馬超 孫権 満寵 諸葛亮 孫堅
政治
1位 曹操
2位 荀イク
3位 諸葛亮
4位 陳羣 鍾ヨウ
5位劉復 陸遜
軍略
1位 郭嘉 法正
2位 荀イク
3位 周瑜
4位 荀攸
5位 賈詡
こんな感じ。まあ戦争は細かいとこ気にするとキリないけど政治、軍略の1位2位3位については文句ないだろう。
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